回転する手品師

意味はない

迷路の射影

地図を読める人、地図を地図として記憶できる人、一度通った道なら迷わない人。そういう人は人口の1/4くらいは居るだろうと思っている。少人数グループに1人か2人くらいの割合。家族に1人くらいの割合。彼らは多分、映像記憶を短期記憶として活用している人。各々の精度はともかくとして、多分それなりに、有意な数はいると思う。

映像記憶は個人差が大きいようで、例えば私が映像記憶を長期記憶として定着させようとするとして、なにかの本のページをカシャリとしたとしても、全体の色合いや文字の密度くらいしか記憶できない。ただ、短期記憶ならばギリギリ実用に耐える解像度になる。だからなのかは分からないが、私は目で見たものを映像的な認識から処理することの方が圧倒的に多い。こういうタイプの人のことを、ここでは仮に映像的な人と呼ぶこととする。私の見立てでは片手に1人くらいはいると思うのだ。

 

ところで皆は手品の演出をどう調整しているだろうか。教科書的な説明をなぞる?好きな手品師を目標に据える?知人友人にアドバイスを請う?自分にとって一番効果的だと感じる演出を目指す?ではその教科書や手品師や友人や自分は、果たして世界をどう認識しているだろうか。

私は映像的な人なので、行う手品の演出はそういう人に対して最適化されている節がある。映像的な人が一番驚くような間の取り方をしたり、映像的な人がパニックに陥りやすい情報の配置をして掻き乱す。例えば私の使う台詞では黙る場面が相当に多い。言葉を最後まで言わず濁したり、急に止めたりもする。映像人は映像情報の処理優先度が高く言葉が重視されないため、黙って情報を絞った方が認識をコントロールしやすいのだ。しかしそうでない人にとっては、黙るのは不親切以外の何者でもない。私の手品の演出は、どうやら見る人によって見え方が違うようだ。いや、私に限らず世のすべての手品は、なんなら手品に限らずとも、受け手によって認識は変わる。

教科書的な演出、とりわけ古典トリックの流れをくむものは長い歴史の中で平均的な観客に最適化されているだろう、という推定はさほど的外れではないはずだ。ということは、教科書的な演出はあらゆる人に高い効果を期待できても、最大の効果を得るのは難しい。もちろん、この姿勢は教科書として正しく、またプロパフォーマーとしても正しい。

 

例えばだ、演技の最初に観客にこう問いかける。皆さまは地図を読むのはお得意ですか?と。その反応から観客が目の前をどう認識しているか分類できたとしたら、その場に応じて演出を変えたり、手伝ってもらう観客選びの基準にしたり、目線や声のかけ方を工夫することで驚きの波及の仕方に影響を及ぼせるかもしれない。観客に最適化した演出を選び取れるかもしれない。ああ妄想が止まらない。なんとワクワクすることか。

具体的に検証する気は毛頭ありませんが。