回転する手品師

意味はない

あまりにもおなかがすいた

昨年の9月末だか10月頭くらいに左手首を骨折しまして、とは言っても重たいものではなく一週間ほど固定してれば完治する程度のものだったんですが、私は人生で初めて手首を固定して生活する機会を得ました。すると面白いもので、普段何気なく行っていることがいちいち難しい。物を持つとか指を動かすとか、手首が関係ないと思っていた色んなことが影響しあっていて、はー人体すげー、とか言いながら生きていました。ただ問題もあって、特に致命的だったのはキーボードが打てなかったことです。左手をキーボードの、いわゆるホームポジションに置こうとすると、肘を大きく外に出さねばなりませんでした。もちろんそんな疲れる体勢でPCを使う気にはなれません。私はプライベートの娯楽の多くをPCから得ていたのですが、キーボードが打てないとそれの半数以上ができません。同様の理由でゲームパッドも持てなかったのでゲームもできませんでした。デックをディーリングポジションで持つことも、同様にできませんでした。となると、私はベッドで横になりながら右手一本でスマホをポチポチするくらいしか、やれることがありませんでした。けれど、それもすぐにやることがなくなりました。そのとき、ふとこのブログの存在を思い出しました。当時はブログを作ったときに書いたのみで完全に放置していました。骨折中はやることがなかったので、なんとなーく書けそうなこと書いて、途中で飽きた内容を大量に下書きにぶち込んで、それを日々の空き時間に思い出したように数行だけ書いたりして、そんな調子でバラバラと11月中頃まで下書きを消費していた、というのがこのブログの、ネタばらしと言うか、まぁ、裏事情になります。つまり何を言いたいかというと、今の更新する気がない状態が正常です。生きています。わたしは元気です。信じて。

 

ところで2つ目の記事か何かで、レクチャーノートを作りたいなどと言っていたのを更新履歴を見ながら思い出しました。あれね、たぶんやりません。ネタがないってのもそうなんですが、なんかもういいやー、って気持ちです。冷静に考えて、売れるような情報を私は片手も提供できません。ちょっと前に、私が5年以上使っていたとあるアイデアが、どうやら一部の日本人プロマジシャンが営業に使っているものと同一だと分かりまして、しかも、その人は商品を出しているわけでもなく、メディア露出しているでもなく、けれど、面倒そうな人達のグループに属しているようでした。自分がオリジナルだと思っていたものが発表済みだった、という経験はたくさんあるので、そういうことでいちいち心が折れたりはないんですけど、面倒ごとに巻き込まれるリスクを冒してまでして、自分がオリジナルだと信じているアイデアを発表したいかと言われると、もういいやー、って感じです。なので最近は、売るんじゃなくて、このブログ上で配布する方向で妄想していたりします。現時点で全く動きだしてないので、多分頓挫すると思いますけど。そこまで手品に割く熱量が今はないですぶっちゃけ。

私はフレンチドロップというコイン技法が得意です。そのやり方を、私が手品に見限られる前に何らかの形で世に出しておきたいと常々思っていて、レクチャーノートの件を思いついたときから並行して原稿を書きすすめていました。これが3割くらいで止まっています。内容が細かすぎて要点が見えてこなかったのです。技法の進化を主張したいとき、大抵そこには、分かりやすい一つのブレイクスルーがあるものです。60点の大きな改善点と15点の付随する変更点と5点の細かい調整案が5つ、まぁだいたいそんなバランスになります。けれど、私のフレンチドロップのアイデアを書き出してみると、自分でも驚いたのですが、大きな改善点が一つもありませんでした。5点の細かいアイデアを20個あつめただけ、しかもその大半はよく知られた考え方を細かく適用したものであり、未出(だと私が信じている)アイデアは僅かしかありませんでした。これだと、技法の進化を謳うのなんだか違う気がします。なので、これもブログ上で雑に書くなりPDF配布するなり画策しています。3割書いた原稿を解体して、あーでもないこーでもないと言いながら、今は理論を組みなおして、別技法に浮気して2ヶ月ほど経っています。進捗2%といったところ。

ただ、ブログ上で手品の種を配布しようとするのは、多分あまりよく思われないのだろうなと思っています。今のご時世。私は、ネット上での手品の種の無償公開に関しては、暴露だけなのは嫌だけど、レクチャーならむしろ積極的にやってほしいという姿勢です。具体的には、他人の商品とかではない、手品師の共有財となっている情報は、無償でアクセスできる場所に、正しい解説があってほしいと思っています。でもこの基準は曖昧な点が2点あります。共有財の基準と、正しさ。ここには私の主観ががっつり入るので、結局夢物語でしかありません。手品人の多くは、手品が日陰の存在であることをおそらく悪く思っていません。はっきりと、日陰であることに価値があると主張する人もいます。この考え方は、手品の種という性質上避けられないものでしょう。私も否定するつもりはありません。私は手品が日向に出てほしいと思っていますが、互いに分かり合えるとは思っていません。私は手品以外にも趣味がいくらかあります。新しい趣味を始めようとしたとき私はどうするのか思い返した時、ほとんどあらゆる場合に、まずググって基礎情報を集めています。どれくらいの時間的、金銭的、技術的リソースが必要か調べます。何を買う必要があるか、どこで買えるか、ネットで買って大丈夫か、どれくらい時間を使うか、連続した長時間が必要か、日々の継続は大切か、必要な情報はどう集めるのがよいか。それらは、趣味を始める前や、始めてからも必要に応じて調べることになります。手品は、それが圧倒的に難しいのです。あらゆる情報が、種と一緒にまとめて秘匿されているのです。いや、探せばあるんですよ、基礎情報はいっぱい。でも、それらはだいたい古いんです。魔法都市案内とか、10年前なら違和感なく読めてましたけど、今見ると、こう、どこぞのだれかが作った怪しいページ感ありません?見た目が。手品の情報は、その秘匿性からとにかく更新が遅く、界隈内ですら(界隈内ぶってると怒られそう)様々な情報の隔絶を感じるのに、これが外になればいわずもがなという感じがします。この状況を見ると、定期的に更新され全員がある一定のフォーマットに従う動画サイトの雑な暴露に人が吸収されるのも、私個人としてはとても納得できるものがあります。そういう人たちを、"正しく"手品の世界に引きずり込めたら、手品はもっと日向に出て行けるのだろうと思っていますが、そのための案を私は夢物語でしか語れないので、もっと強い人が達成してくれることを自分勝手に願うことにしています。

手品の何が楽しいんだろうか、と考える機会がここ数年何度か訪れました。そのたび、手品の表側と裏側の構造的美しさがそれなのだろう、という思いを強くします。種明かしの話になった時に、種を知ったら観客はがっかりするという言説を見ることがありますが、種を知ってその構造に感動するようなプレゼンテーションでどうにか上書きできないものかと、最近は考えています。多分同じように考えて、人知れず散った人もいるのでしょう。仮に手品の種を、無償で誰でも簡単にアクセスできる場所に公開したとしても、手品の構造的美しさを伝える努力をして、かつそれが達成されているのならば、私はそれを全面的に称賛するつもりです。百年くらいなら待ちます。