回転する手品師

意味はない

自動手品

これは思考実験である。

手品の本質的な部分に演者の存在は欠かせない訳だが、これを排除した時、起きた現象は”手品”になるのか、それとも”カラクリ”や”奇跡”や”超常現象"になるのか。

 

 

 

 

ある日、美術館に行った。目的の展示を楽しみ、時間が余っていたので館内をふらふらと回っていた。見ると色々と個展だったり絵画コンクールの記念展示が行われているではないか。お金さえあればこういうスペースを借りれることを理解した。同時期に、とある体験型の展示会がちょっと話題になっていた。展示に体験の要素を取り入れられるのだと思った。

ふと、手品を展示できないだろうかと思った。これが発端だ。

 

手品を展示する。

決して手品に関する物事を展示するのではない。手品自体を展示するのだ。それは無理だろうと思った。手品には演者の存在は不可欠だ。演者のいない手品、それはカラクリやテクノロジーや錯覚や心理学現象や偶然でしかないだろうと思った。錯視を、パズルを、光学現象を展示したいのではない。あくまで手品を展示したいのだ。ただただ演者の存在を排除した、手品そのものを展示したいのだ。

 

そこで1つ思いついたものがある。

仮に手品にまつわる何かの展示が行われているとしよう。ある一角に道具と解説があって正面には鏡が設置してある。客は、道具を持って解説を読んで鏡で見え方を確認して、手品の裏側の面白さを知る、というテーマのスペース。具体的な道具のイメージはないのだが、例えば四つ玉のシェルのような塩梅が良いかもしれない。客は鏡に映る現象と自分から見える裏側のギャップを理解する。そして次のスペースへ行く。

ぐるりと回って別の展示。マジックミラーの説明の後、ガラス窓が設置してある。その窓からは、なんとさっきのスペースが見える。そう、あの鏡はマジックミラーだったのだ。するとそのスペースに別の客が入ってきて、鏡の前で現象を起こしてみせる。その姿をマジックミラー越しに見る。しかしそこで明らかに”起きてはいけない現象”が起きる。例えば、シェルの裏側まで見せてしまえるとか、そういう現象が起きる。

最初のスペースと後のスペースは実は違っていて、マジックミラーの向こうは巧妙に作られた擬似展示ルートである。そこで起きた現象は仕掛け人がやったものだ、という仕組みだ。

実現可能性や、あまりにも悪趣味だという点は今は無視して欲しい。ここで起きた”現象”は”手品”だろうか。

演者は居る。しかしマジックミラーの向こうの人は、客にとっては”別の客”であって”手品師”ではない。”別の客”と自分たちは手品に対して同レベルであるはずだ。

現象は起きるが、それは決して偶然でも錯覚でもからくりでも神の奇跡でもない。明らかに手品の文脈で起きて、手品として表現された不思議さだ。

知っているはずのタネが全く見えないだけではなく、そこにタネが見えなければならないという確固たる理由がある。自分たちがその展示を確かに体験してきているのだ。これは、例えば手品師がやるドッキリ企画のような”見知らぬ人が何か不思議なことを起こした”のと同じ不思議さに分類して良いのだろうか。

手品師が見破れない手品を見たときの感覚がこれに近いのだろうか。けれど、それと今回の例では”未知の可能性”へ考えを向けられるかに大きなギャップがある。

 

結論は出せなかった。だが、手品を展示できるかはともかく、不思議さを変なバランスで展示できるような気がした。そこからさらに色々考えた。考えたが手品を展示する手段は浮かばなかった。

 

演者がいなくなるだけで、”手品”は”手品の裏側"になってしまう。すごいテクノロジーとか錯覚とか偶然だという解釈が一番適切な解釈になる領域に入り込んでしまう。手品には、人間同士が向き合っているからこその、人間への敬意が必要不可欠であり、これこそが世間が”芸”と呼ぶものなのだろうか、などと思った。

ならば壁から手だけ出して機械的に手品したらそれは何になるんだろうかとか考えたりしたが、絵面が普通に芸人だと気付いたのでやめた。難しい。

 

不思議さと演者の両方がないと手品は成立しない。これは当たり前だろうか。なんだか悔しい。

 

ところで完全に余談なのだが、演者がいなくても手品たりうる現象としてもやもやしているものが1つあって、その場での印象はガン無視して、記憶の改竄を利用して帰宅後に「あれは凄い"手品”だったな」と思わせることに全力を注ぐのはどうだろうか、と思っているのだが、実現可能性を無視しても具体例がわかないので机上論にもなっていない。ゴミ。