回転する手品師

意味はない

梅昆布茶の呪い

「解説と言語化することの違い」などと銘打って何か書こうものなら、「解説に曖昧な言葉を使うな。それは言語化とは異なるものだ。しっかり言語化したものを解説しろ」といった説教を思う人もいるだろうし、私はそういう事を言いがちな人間だし、もし私がそんな見出しの文章を見かけても読む気は起きないだろう。

 

私が手品の技法や考え方を言語化しようとしたときは、基本的に、曖昧な表現や感覚的な表現は排除したいと考えている。「あとは練習して掴み取ってくれ」だの「自然になるように意識しろ」だの、そういう表現を使うべきではないと考えている。けれど、ある程度言語化が進んだ時、どうしても「あとは練習のみ」という言葉に到達する。まともに考えれば当たり前のことだ。頭で理解している事と、その通りに身体が動く事とは違う。どれだけ優れた解説であろうとも、読んだ直後に全くその通りにできてしまうような解説は、この世に一つとして存在しない。しかし私の中には「あとは練習のみ」とはどうしても言いたくない気持ちが残る。その違和感の正体は、おそらく、世の中には「あとは練習のみ」の段階に到達していないにも関わらず「あとは練習のみ」と語る解説が溢れていて、私がそれらの事を嫌いだからなのだろう。

 

動きの言語化を進め、解説という形に落としこもうとしたとき、私たちは、解説の範囲を線引きしないといけない。どこまでを説明し、どこからを読み手に任せるのか切り分けねばならず、それは、細かく説明しすぎないという点にも同じ事が言える。自分の動きを分析するにしても、他人の動きを分析するにしても、やろうと思えば際限なく細かく言語化することは可能だ。0.1秒未満で区切って(動画コマ送りで)理論化したり、物理法則や人間工学の話をしたり、あるいは個人差・個体差を考慮して場合分けしたり、誰もやろうとは思わないだろうが、間違いなくできる。私の経験上、そういう細かすぎる言語化にも(費用対効果を無視すれば)ある程度の意味はある。そして、そういった極限まで詰めた理論こそが、まさに言語化の到達すべき地点だろうと私は今でも信じている。しかし、それは解説として適切ではない。

 

手品の解説は(手品に限った話ではないだろうが)、上級者向けの資料になればなるほど、雑になる傾向がある。「言わなくても分かっているだろうこと」を端折るからだ。受け手も「言われなくても分かっている」ので問題ない。初級者向けの解説になると「言わないと分からないこと」をしっかり書くようになるが、細かい部分は解説したところで意味がないので書かなかったりする。これは物を教える上で真っ当な姿勢と言える。受け手のキャパシティを超えた情報を一度に与えても意味はない。”ある程度”の習得を繰り返してレベルアップを図るというのは優れたやり方だ。

ただ、ここで私は、声を大にして問いたい。初級者の頃にあえて与えられなかった様々な細かい情報は、いったいどこで身につくのか。どこにあるのか。少なくとも、非常に不本意ながら、私はそれらを自分で掴み取った。皆もそうだろう。念のため言っておくが、ここで言う細かい情報とは「あとは練習して掴み取ってくれ」や「自然になるように意識しろ」といったものではなく、それらを言語化したものの事だ。私は、そしてあなたも、それらを”理解”はしているが、アウトプットできない。努力と経験で掴み取ったがために、言葉に変換する習慣がない。

驚くべき事に、手品が上手くなるごとに、アクセスできる(能力的に理解できる)情報の裾野の広がり方は極めて小さく、その代わりに、自分の中の蓄積がただただ増えていく。手品の世界は、個々が膨大な淀みを持っているにも関わらず、それらが集合知としてアウトプットされることはほとんどない。曖昧な表現だけで組み立てられた「分かる人には分かる」情報が、一定の地位を築いていたりする。そのアウトプットされない”知識”が、手品への適正という形で、世に横たわり隔たりを生み出している。私も、あなたも、運良く適性があった。実に良くできた排他的で閉鎖的なシステムだと思う。私は嫌いだ。

 

解説や言語化の在り方をあれこれ考えると、初級者向けにしろ中級者向けにしろ上級者向けにしろ、あるいは”分かる人向け”にしろ、手品の世界における解説の在り方は多分さほど間違ってはいないように思う。問題は、初級者や中級者や上級者を隔てる様々な”知識”が、捉えどころがないまま放置されているところにある。曖昧な表現で困ったときに理屈で説明してくれる場所は必要だし、手品を学ぶごとに情報の裾野は確実に広がって欲しい。そこを担う理論化を、仮にここでは”言語化”とでもしておこう。

解説は、他人に理解し習得させる事を目的とする。だから、受け手によって情報を取捨選択する。レベルに応じて必要以上のことを教えなかったり、段階を飛ばしたりする。この取捨選択が上手い人が、教えるのが上手い人だと言える。

言語化は、解説とは違い、取捨選択は望ましくない。可能な限り全てを、正確に表現したい。この際、受け手の理解をある程度妥協するのも、(もし解説領域との役割分担が確実であるのならば)言語化の領域として問題ないだろう。もちろん、ここでいう妥協とは、感覚的で曖昧な表現を使うという意味ではなく、例えば別分野の専門知識を引用したりという話だ。

言語化の領域は、言い換えれば研究者としての役割であり、論文が最終目的となる。解説の領域は、言うなれば教員であり、情報を適切に噛み砕いて説明するのが目的だ。欲を言えば、噛み砕く領域と説明する領域とでさらに細分化できると望ましいのだが、本稿ではそういう現実的な話はしたくないので割愛する(要するにこの文章は妄想理想論ってことですよ!衝撃的事実!!!)。現在、手品の世界では、ろくな論文的な存在もないまま、教員が各々で考えて説明するところまで求められる。だから、人によって言うことがまちまちで、正しさに基準もなく、なにより根幹をなす理論があやふやだ。基礎となる論を作る役割がもっと重要視されない限り、いつまでたっても手品は学問にもなれないし、適性のない人を受け入れることもできない。手品にはまだやるべきことが無数に残されている。

 

 

ということをなんとなく考えていた。私はつい最近、言語化と解説を両立しようとして収集がつかなくなる、という事態に何度も陥って、端的に言って死にたい気分なので、ひとまず言語化に焦点を置いて色々やり直そうと思う。当分の間、責任範囲を狭めてみる。後のことは知らん。少なくとも、私は解説という役割には全く向いていないようなので、苦手な事には手を出さない方が良いだろう。いや、やりたくない。

こう色々方向転換を繰り返しているのだからお前は何も成果を出せないんだ、とか言われそうだし、それは事実なので受け入れるけれど、実際のところ、具体的なものを世に出さないままひたすら努力をするというのは、ストレスではあるものの間違いなく甘美な時間でもあり、趣味でやってるんだからこれくらい甘えさせてほしい。