回転する手品師

意味はない

億単位

コインのつまんでいるふりのスタンディングにおけるニュートラルポジションのお話。

 

コインを持っているふりは、「握っているふり」「つまんでいるふり」「乗せているふり」の三つに大きく分けられる。それぞれ文字通りのものなので、いちいち説明はしない。この中でも握っているふりはとりわけ多用される技法だ。ならば、つまんでいるふりなんかよりも先に語るべきなんじゃないかと思う人もいるかもしれないが、それにはごくシンプルな理由があって、つまるところ、私は握っているふりが苦手でまともに説明できない、ということである。各々試行錯誤していただきたい。握っているふりは他の小物系の手品でも多く用いられており、個人的にはニットボールはコインに比べて易しいと感じているので、そこから練習するのも良いだろう。ちなみにスポンジボールやスポンジウサギは死ぬほど難しいのでお勧めしない。

 

先に挙げた三つの持っているふりには各々役割があって本来ならば使い分けるべきであり、それについても言及したいところだが、なにぶん私は握っているふりが苦手な上に、乗せているふりに至っては何一つ理解できていないので、これについても各々で考察していただきたい。一応、タイミングがあれば以下の文章の中でチラと書くかもしれない。

 

ニュートラルポジションとは何か(なおこれは私が便宜的に名付けたものであり、もし同名の手品概念が他にあるのであれば、それは私の不勉強以外の何者でもないので遠慮せず指摘してもらえると嬉しい)。手品における観客の意識コントロールの基本的な考え方の中に、”脱力”や”自然”というような言葉が使われる事がある。観客に意識させたくないところや観客が見ていないところは脱力した自然体である事が望ましい、まあおおよそこんな考え方だ。このときに想定される”脱力した自然な身体の使い方”は、言うなればニュートラルな状態である。

何らかの流れでコインをつまんだふりをし、すぐに消したりするのではなく、ある程度の時間そのままおいておく必要があるとき、例えば話をして時間を稼いでコインをつまんでいるという認識を固定化させたい(記憶の中の認識を乖離させ改ざんする基本的な手続きだ)時など、そのときにつまんだふりをしている手がとるべき脱力した自然な形こそがニュートラルポジションである。ニュートラルポジションは観客の注目下には無いが、観客の視界の中には存在するため、もし不自然ならば簡単に観客の注目を集めてしまうとても危うい状態である。やり方が不適切だと手品の構造が見え透いてしまうリスクすらあり、だからこそニュートラルポジションは曖昧な言葉で説明されるべきではなく、適切な言葉で習得されるべきだ。

 

つまんでいるふりは具体的にどのような場面で使うだろうか。フレンチドロップ等の取り上げる動きのある技法、特殊なリテンションバニッシュ、マトリクスやアセンブリ系のトリックでのカードの下のコインに関する動き、ラッピング、コインスタンドからのバニッシュ、コインスルー系。特に下調べもなく今思いついたものを書き並べてみたが、ザッとこんなところだろうか。さほど多くはない。また、ラッピングなどがまさにその代表例なのだが、ニュートラルポジションを経由しない場面も多い。先程述べたようにニュートラルポジションは危うい状態なため、経由しなくても十分な効果を得られるのならわざわざ経由すべきではない。それでもニュートラルポジションを経由しなければならない場面は確実に存在し、また経由する事でさらなる効果を期待できる場面もある。ここではそういった極めて限定的な(しかもスタンディングに限った運用での)考え方を説明するという事を、いま一度確認してほしい。

 

ニュートラルポジション、すなわち自然なコインの持ち方を考えるためには、まず「コインをつまむ」とはどういうものかを考えなければいけない。コインを持つ動きには他にも「握る」「乗せる」があることは冒頭でも述べたが、この2つに対して「つまむ」が持つ特徴、すなわちわざわざ「つまむ」を選択する理由とは何か。その理由は、特定状況下ではつまむ動作は一動作で完了する合理的な動きだからだ。握る動きや乗せる動きは、他方の手から渡される状況では一動作で完了するが(もっとも渡す動き自体がさらに一動作であると考えることもできるが)、例えば取り上げる動きなどでは「つまみ上げて握る/乗せる」という複数動作が必要になる。そのような状況において、つまむ動きは非常に合理的な動きたり得る。この「さまざまな選択肢の中でもっとも合理的な動き」は手品における自然さのひとつの基準でもある。

だからこそ、手品師は作り出した合理性を簡単に崩してはいけない。「つまむ」という動作を選択したのならば、それと同程度かそれ以上の合理性を持った動作で後の動きを構成しなければならない。例えばコインをつまみ上げたにも関わらず、つまんで保持するのに適さない高さや角度に手を置いていてはいけないし、コインを握っていた方が楽なはずの動きをつまみながら行ってはいけないのである。

ところが、ところがだ、「つまんでいるふり」には構造的欠陥がある。四指を揃えてコインを見えないように保持するという形自体が、合理的とは言い難く、見るからに不自然なのである。つまむという行為は、本来なら指先同士で行われるものであり、コインが見えていて当たり前な動作のはずなのに、それがすっかり隠れているというのはどう考えても不自然だ。少なくとも、ニュートラルポジションに置いておけるほどの耐性は全くない。

余談になるが、その点において握っているふりは極めて優秀である。というのも、「握る」という状態がそもそもコインが見えなくて当たり前な状態だからだ。つまんでいるふりではコインが見えない事が怪しさを生み出してしまう可能性があるが、握っているふりでは見えているかどうかの怪しさへの影響が極めて小さい。物を握った状態はかなりの広い場面において合理的な選択肢なのである(もっとも、握っているふりを選ぶ理由付けは必要になるのだが、幸い手品の歴史の蓄積はそれを簡単に解決してくれる)。握っているふりが高い汎用性を発揮するのも、そういった理由があるのだろう。

話を戻そう。つまり、つまんだふりのままニュートラルポジションをとるためには、四指でコインを覆い持つことに合理的で自然な理由を見つけなければならない。これには手の角度が関係しており、結論から述べれば、「四指を下にしてその上にコインが乗っていて親指で上から押さえている」状態は自然な状態に近い。説明をしよう。まず、コインをつまむという状態を大きく分けると、親指が下か上か(コインが傾いている)、あるいはコインが垂直であるかの状態で捉えることができる。また各々の指の役割は、下側の指がコインの重力を受け止め、滑り落ちないよう摩擦で留め、それを上側の指が押さえ支えることとなる。下にある指とコインとの接面積が大きい方が重力を受け止めるにも摩擦を生み出すにも合理的であると言える。コインが垂直である場合には各々の役割が近付くだけだ。ここで、親指と四指という形質的非対称性から見れば、土台が大きく押さえる側が小さい、という理想的な関係を成しうるのは親指が上にある場合しかない。コインが四指と広く接しているという(つまんでいるふりが装うべき)状態は、四指にコインを乗せているという状態でしか合理性を勝ち取れないのである。もちろん、これは簡略化した考察に過ぎず、実際には手の角度は常に変化するし、それに合わせて指を目まぐるしく入れ替えるべきかというと決してそんなこともない。コインの角度は重力と慣性力の合力から判断されるべきであり、指の形は動きの終着点を基準に決めるべきだろう。

つまり、つまんでいるふりのニュートラルポジションは「四指を下にしてその上にコインが乗っていて親指で上から押さえている」状態にあるべきで、それを目的地として事前の技法からそこに至るまでの動きを、観客にそうである(自分は今このコインを四指を下にした楽な姿勢に持って行きたいんですよ)と伝わるように遂行されなければならない。観客への情報伝達については、ニュートラルポジション関連ではなく事前の技法から考察されるべきものなのでここで詳しく述べることはしないが、技法を「見せない技法」として行い、ある状態から別の状態へ移しただけだと思わせるのが一番分かりやすいだろうと思う。

 

ここまでを簡単にまとめると、つまんでいるふりは親指を上にして持つのであれば割と自然だ、ということになる。そしてその角度は水平であればあるほど(コインが重力任せに乗っているだけに見えるほど)望ましい。

ただ、この持ち方だとコインがあるはずのところに何もない事が見えてしまう恐れがある。なので調整しないといけない。そのやり方はシンプルで、コインの平面の向きと観客の視線を揃えてやれば良い。観客からは、コインのエッジだけが丁度見えるはずの(要するにギリギリ見えない)位置と角度に調整する。これで合理的で自然でかつコインが見えない持ち方になる。

そろそろ皆も忘れてきたと思うので今一度確認しておくが、これはニュートラルポジションを想定した議論であり、この時点でつまんでいるふりをしている手は観客の視界内にあっても注目下にはないことになっている。

この状況で手を先に述べた角度調整をすることは、手品師が気を抜いていることをアピールする狙いもある。観客から見て、手品師が脱力した自然な状態で話をしており、手はコインが見えるかどうかの微妙な状態にあり、そのことを手品師自身が全く気にもとめていない。手品師がそこにコインがあるかどうかを全く重視していないのだと暗に伝える狙いがある。そう観客に刷り込む事で、コインが本当に渡っているのか疑わせない狙いがある。この「手品師が重視しないものを観客も重視しない」という考え方は、オフビートの考え方などでも幾度となく取り上げられる手品の基礎理論であり、注目されたくない、疑われなくないからこそあえてぞんざいに扱って見せるという、パフォーマンスへの信頼を逆手にとった理論である。ニュートラルポジションという観客の注目下にない状況において、コインを持っていることを信頼させる現実的な手法はこれしかないだろう。表面上は雑に、けれど緻密な動きが求められる。丁寧かつ大胆に、だ。

 

つまんでいるふりのニュートラルポジションは、四指を下に親指を上にして、角度は観客の視線に合わせる。要約するとこれだけだ。ニュートラルポジションのやり方とそのための理論にのみ着目して説明したので、つまんでいるふりの具体的な手の形や、そこに持っていくための手続き、見せない技法に関する理論、そもそもニュートラルポジションの具体的な使い道、全て書いていない。握っているふりや乗せているふりについても結局ほとんど言及しなかった。ニュートラルポジションそれ自体は難しいものではないが、それを活かすためにはそれなりにコイン慣れ手品慣れしていないといけない。だからこの文章だけで意味があるのかと聞かれると口籠るしかない。

ニュートラルポジションの効果は各々実践してもらうのが一番手っ取り早いだろうと思う。意識誘導の難易度が目に見えてがくんと下がる。つまんでいるふりをしながら観客に指の背を見せている人はそれなりの数見かけるが、そういう人はニュートラルポジションを経由しないように手順構成するか、つまんでいるふりを使わないか、できればニュートラルポジションを矯正すると良いだろう。客席からの面倒な視線をかなり減らせるはずだ。

 

ああそうそう、なぜスタンディングに限定していたのかについて一応述べておくと、テーブルがある場合には、コインがテーブルに接するような持ち方が十分にニュートラルたりうるため理論構築が難しかったというのもあるし、何よりラッピングが強すぎて考えるのも馬鹿馬鹿しくなった、というのが大きい。今後考察する気はない。

 

最後に、これを手品師の前でやると、不慣れで危なっかしい手つきだと思われて損するだけなので、手品師の前ではやらない方が無難だ。