回転する手品師

意味はない

重さと慣性と摩擦のはなし

実践例のない理論はゴミだと思いますし、後付け理論には不備不足があると思っています。

 

数年前に思いついたものの、技術的具体例を示すことができなかった机上論がありまして、まあ要するにゴミな訳ですけども、それを書いておきます。

 

 

 

 

 

 

何かを"持っているふり"をするとき、よくこういうアドバイスが使われます。

「まず実際に持ってみるんだ。その手の形や力の入り具合を目で見て覚えて、そして感覚として体に覚えこませるんだ。そうしたら、次は何も持たずに同じように動かしてみなさい。ほら何かを持っているように見えるだろう?」

 

......

いや見えねえよ。

練習不足だと切り捨てるのはあまりにナンセンスでしょう。私たちは本来説明すべきことを"感覚"という曖昧な表現で説明したつもりになっているのではないでしょうか。

 

バニッシュ技法で多く用いられる”持っているふり”はマジックの中でも難しい動作の一つです。

バニッシュは基本的に"渡したふり(取ったふり)"と"持っていないふり"と"持っているふり"の三つの構造に分解できます。

"渡したふり"はバニッシュ技法そのものとして解説されます。

"持っていないふり"はパーム技法として様々な資料で解説されています。

しかし"持っているふり"は技法として解説されることがありません。その代わりに自然さという文脈で解説されます。前述した「体に覚えこませよ」的なやつです。

"持っているふり"はバニッシュの大きな構成要素の一つでありながら、未だ技法として認識されていないのは問題視されるべきことです。

 

 

 

"持っているふり"をするときに気を付けないといけないのはコインの重さです。

パントマイムで重さを表現するとき、私は"重さ"とは"重力"なのだと思っていました。質量に重力加速度がかかる重力です。ですから上向きの力の入れ方、下向きに抵抗のある動き方を意識していました。でも賢明な皆様ならもうお分かりでしょう。コインの重さって質量のことですよね、どう考えても。

 

ということは、質量が影響する動きは全て"重い動き"にならねばなりません。

例えば、慣性力や摩擦力。

 

ということで本題。

持ったふりをしている時の 動きでは、慣性と摩擦にも重さを考慮しないといけないよ。というお話。

 

慣性。

慣性は重さの影響を受けます。同じ手の動かし方でも、軽いものを持っているときは手の動かし方自体が支配的で、重いものを持っているときは重さの影響で動きが変わります。

何も持っていない、軽い状態の手の制御は簡単です。おおかた思った通りの動きをできるはずです。

しかし重たいものを持った手の制御は、あなたが思っているよりもずっと困難です。あなたは、重たいものを持った手を滑らかに動かし始められますか?手首関節を引っ張られないように止めることはできますか?空中に静止させられますか?意識的にはできるでしょうが、無意識の何気ない動き、シークレットムーブが装う動きの中で、重たい手を制御することはできないはずです。

 

具体的に手はどう影響を受けるのでしょうか。

例えば、肘の高さから胸の高さに物を持ち上げるとき、軽ければ肘の位置をあまり動かすことはありませんが、重ければ肘を下ろして重さを支えようとするはずです。ダンベル等を持っているところをイメージしてみてください。人は重さを関節で受け止めようとします。身体の重心に重さが乗るように(そしてその重心が足に乗るように)関節の位置を調節します。

ものを持っているふりをするとき、活躍するのは筋肉ではなく、関節です。手を動かし始めるときや止めるときにかかる慣性は関節で受け止める必要がありますから、より大きな重さならば肩やひじ関節を使って、コイン程度の重さなら手首や指関節を駆使して、慣性を表現しなければなりません。

 

 

摩擦の話。疲れたのでざっくり書きます。どうせ机上論だからね。

コインには重さがありますから、コインをつかんだまま維持するためにはコインと指との間には重さに比例した摩擦力が働かねばなりません。そして、摩擦の強さ、言い換えれば持つ指の力は、手の向きによって変わります。重力任せに置いている状態では持つ力は必要ありませんし、手を立てればある程度強く持たないと滑り落ちてしまいます。軽ければ小さな力で保持できますし、重ければ大きな力が必要です。

そしてここがとても大切なのですが、持ったふりをしている状態でも手の向きは動くはずなので、手の向きに合わせて持つ力や力を入れる指を調整しなければならないのです。物を持っている手の形は、状況に応じてめまぐるしく変化します。持っているふりをしている手の形はしっかり固定すべきという考えをしばしば見かけますが、私は賛同しません。

 

 

 

 

 

ところで、これらをどう技術的に説明したら良いんでしょうか。感覚って言葉は使いたくないんですが、結局そうでしかないなあ。という結論になってしまします。色々なパターンを観察して感覚として覚えるしかないなと。統一できる技術的理論をつくろうにも、状況によりけりってなっちゃいますし。

やっぱり、"持っているふり"を技術として体系化するところからなんですかね。とてもやりたくないですね。マジック理論って、天才が突然何段階もすっ飛ばして"経験則"とか言いながら提唱するもんだから、基礎理論がボロボロな印象があります。もっと学問的な整理をしてほしい。私はやりません。