回転する手品師

意味はない

見て見ぬふり

中学生だったか高校生だったかも忘れてしまったが、とにかくそれくらい昔、家族旅行先の街中で大道芸を見た。何かのイベントだったのかもしれない、かなり良い場所に陣取り、百を超えるかという観客を集めていた。レベルは高かった、と思う、当時の私の目にはそう見えた。

大道芸人は風船飲みをした。赤い風船を苦しそうに飲み込んだ後、小さい女の子に口の中を確認させた。空だった。そして、苦しそうに胸を何度か叩いて、咳き込んで、口から赤い細い何かをチロリと引っ張り出した。マウスコイルだ。女の子に端を持たせて口からマウスコイルを大量に吐き出して見せた。拍手喝采だった。マウスコイルが口から出てきた瞬間、横にいた母が「あ、なるほど」と言ったのを私は聞き逃さなかった。

風船飲みからマウスコイル。鉄板の流れだ。絶対にウケる。その時までそう確信していた。

 

帰り際に母になぜなるほどと言ったのか尋ねた。風船がしぼんでいることに気付いたからだと教えてくれた。いやいや、口から出てきたのはマウスコイルでしょう?風船は綺麗さっぱり消えたじゃないかと抗議した。そしたら、それはそうだけど風船がそのまま消えたんじゃなくてしぼんでどこかに隠れてるんだって事に気付いたのだと。その言葉を理解するのに私はかなりの時間を必要とした。

 

風船が消える。ならば空気を抜いてうまく隠しているはずだ。

という認識を観客も持っているのだと思っていた。いわゆる、暗黙の了解だと思っていた。どうやら違うらしい。風船飲みは、あの大きな風船がそっくりそのまま綺麗さっぱり消えてしまうように見えるらしい。自分がマジックの勉強を始める前のことを思い返すと、たしかにそうなのだ。人間が忽然と消えたとき、その人が屈んでいたり伏せていたりする事など考えなかった。コインが消えたとき、どこかに隠していることを気にした事など無かった。どれも、マジシャンが、あるいは司会(私がマジックを見るのはテレビが主だったのでたいてい司会進行役やナレーションがいた)がその事に触れて、初めて気にし始めることだった。マジックを学び、マジックの裏側を知って、マジックの考え方を吸収したいつしか、私はそのことを忘れていた。風船はしぼんでいない。そのままの形で虚空へ消えたのだ。

 

マジックはどのような芸なのか。不思議さとは何なのか。という議論は今も世界中で行われている。観客はマジックの生み出す不思議さをどの次元で楽しんでいるのか、という疑問に頭を悩ませるのは誰しも経験があるだろう。本末転倒な結論を言えば、人それぞれなのだ。だがその中に、純粋に、見たとおりそのままに不思議さを受け取っている人がいるのは事実だ。それが、例えば子供の頃の私であり、私の母であったりするわけだ。観客は、マジックにはタネがあり、なんかは知らんがうまくやっている、ということを理解していて、その上でマジックを見ている。けれどそれは、観客がマジックをタネを追いながら見ているという事にはならない。

タネを追っている観客にはあらためなどをして潔白を示さねばならず、しかしタネを追っていない観客にタネを意識させたくもない。この二つに板挟みにされながら、今日もマジシャンたちはどこかで喘いでいるのだろう。