回転する手品師

意味はない

ここ2年くらい自分の中では音が興味の対象としてありまして、色々ぐちゃぐちゃやっては挫折してということを繰り返しているのですが、最近ちょっと面白い問題に直面しました。あんまり具体的な話はできないですけど、書ける範囲のことを書いときます。

音を利用した手品はたくさんありますが、その大半が音を現象の補助として使います。いやなんか表現違うな…例えばクリックパスだったり、マイザーズドリーム、スタンディングでのフォールスリフルシャッフル、ラトルボックス等々。これらは音が重要な構成要素を占めますが、音自体が現象(あるいは手続き)の中心ではありません。音が鳴らなきゃいけないから鳴るのです。注目の対象はコインやカードや指輪なのです。

しかし中にはそうではない作品もあります。音それ自体が現象となるもの。あまりぱっと思いつきませんが、有名なものだとデビッドロスのチューニングフォークはこれに該当するでしょう。私はこの「音による錯覚を現象として表現する」ことに興味を持っています。

少し前、コインを使ったとある現象について考えていたとき、ひとつ気付きを得ました。コインを手の平に乗せて手を上下に振った時に鳴る音と、手を握って振った時に鳴る音とでは、明らかに音が違うのです。考えてみれば当たり前ですね。振った回数に対するコインと手との接触回数が違うのですから。残念ながら私はこれを実際に試すまで気付けず、そのどちらの音も登場する現象を考えて、一方の音しか鳴らせない手順をつくりました。結果はお察しです。観客の想像力を馬鹿にしたような下らない現象にしかなりませんでした。音を現象として表現しようとしているのですから、この差を無視するわけにはいきません。作り直しました。

ここからが問題です。実用性はともかく検証するには十分な仕掛けを拵えて、もう一度試してみました。けれど解決はしていませんでした。手の平と握り拳の両方の音を現象に登場させたとき、音が違う事が大きな違和感になってしまったのです。手の平で音が鳴る、そして握り拳から音が鳴る。そのどちらも現実に沿った音が鳴っているにも関わらず、強烈な違和感を放っていました。

音を現象として表現するということは、当然観客の注目は音にあるわけです。けれど観客は手の平と握り拳とで音が違う事を知りません。無意識下で何か感じ取ることはあるでしょうが、意識的に注目している状況でその差を認めることは容易なことではないでしょう。けれど手品師側の都合として、現象を現実的なものに収めようとしたとき、音の差を無視したときに生じる無意識下の違和感を許容することはできません。観客の想像力を馬鹿にしたチャチな現象になってしまいますから。

音を現象にするために極めて現実に即した音を表現した。そのせいで現象は成立しない。久々にやられたと思いました。音を現象として表現するとき、似て非なる音を現象中に登場させてはいけない、という結論を全く予測できませんでした。手品、奥が深いですね。精進します。

 

ところでこれ書きながらトゥパーフェクトセオリーの議論とちょっと近いのかなと思いましたが、多分全く別の問題です。でもどうなんだろう。トゥパーフェクトセオリーに関しては、私は「その手品が理想とする現象が完全であるほど、タネによる制約や表現難易度、観客の期待値といった問題でボロが出やすくなる」と認識しているのですが、あまり詳しく知らないもので。ただ今回問題にしているのは、音を現象として表現する中で近い性質の音を共存させたことによるものなので、音をひとつに絞れば解決するだろうと予測しています(できるとは言っていない)。やっぱりトゥパーフェクトセオリーとは関係なさそうです。

地下一階の世界旅行

この一年を振り返って昨年のようにつらつらと書こうかと思いましたが特に書くことが思いつきません。あいも変わらず惰性です。でも冷静に考えてここ何年もずっと惰性です。一定の距離をおいて、でも手放すことはないような雑な関係性で安定しています。

今年になって具体的に何をしただろうかと考えてみると、いくつかの技法を練習したり、DFコインの研究をしてみたり、ネモニカに挑戦して挫折したり、よく分からない手品のような何かを創作したりしました。今年は何かをひらめくことがとりわけ少なかったように思います。原因は分かっています。日々の考え事リストの中の手品の割合がかなり減ったからです。手品以外で脳みそリソースを割きたい事項が増えました。考えなければひらめくわけもありません。当たり前です。それでもなんだかんだゼロにはなっていないのですから、結局手品に飽きた訳ではないのだなという安心を覚えたりもします。いつかこれがゼロになる時が訪れるのでしょうか。その時私はどう生きているのでしょうか。今はあまりイメージできません。

 

あー、心の闇が出て変なこと書いちゃってたので消しました。ナニモナイナニモナイ。

 

まだまだこの先もきっと、歪んだ感情を抱いたまま手品をしていくのだろうなと思っています。来年もきっと、何の益になるかも分からないことを喚きながら生きているのでしょうから、手品を愛している人は近付いてこない方が良いと思います。お互いのために。

雌鳥

アイトラッキングによる手品理論の検証について真面目に考えようとした結果真面目に考える価値すらない結論に至ったというオチ。今だとVR技術関連で視線誘導とかの研究が比較的身近にあって、まあ仮想空間だと色々任意にオブジェクト配置できるから現実世界とは違う部分も多いんだけど、手品理論に近い感じの議論も多少はあるんじゃないのかなと思うので、そっちを掘る方が建設的だと思います。手品としての文脈、領域での研究は無謀かなと。私はVR関連は興味の範囲外なので今のところ触れる気はありません。

 

アイトラッキング。なんか手品理論を検証した研究があるらしいですね。予め言っておくと、アレわりと限界点だと思います。我々はこの先まだまだ経験則に頼らねばなりません。現実的な検証手段が出てくる事を願うばかりです。

 

具体的なお話。

アイトラッキングで手品研究をするなら、なによりもデータの量が必要です。可能な限り通常のパフォーマンス下で、無作為な観客が望ましいでしょう。装置をセッティングする必要がありますから場所を頻繁に変えるわけにはいきません。となると、現実的なのはマジックバーくらいでしょうか。バーのカウンターのどこかに装置を設置しておいて、ひたすらデータを集めまくる。しかしこれが全く現実的ではない。なぜか。

まずマジックバーは暗い。そもそもアイトラッキングできるのか。

次にどこに装置をセットするのか。観客の目線を追えるような位置にレンズが覗いていたとして、そこで得られたデータは信頼できるものなのか。

そして観客の目線を追える位置を遮らずに演技する事は可能なのか。

これに加えて、私の調べた範囲では、アイトラッキング装置はパフォーマンス等への利用を想定されて販売されてはいないようです。パフォーマンスの解析に利用する場合、アイトラッキング装置自体に加え、パフォーマンスそのものを撮影した観客目線のカメラも必要になります。この部分に関して技術的に不可能ということは無いと思いますが、その方向に展開されてない以上、根本的に研究開発費が必要です。とても無視できる額では済まないでしょう。

最後に、これがあまりにもどうしようもない事なのですが、集めたデータを分析する手段がありません。人の手であれこれするには限度があるのである程度は機械的に処理される必要がありますが、現実的に何を基準にどう分析していけばいいのか見当もつきません。なにせ演者の動きは一定でないし、観客の目線も一定ではないでしょう。セリフも毎回微妙に変わるはずですし、前後の演目の影響だって無視できません。バーなので観客のアルコールの程度も考慮しなければいけません。そもそも、私たち手品関係者ですらそういった様々な事項を整理しきれていない現状があるのです。それをどうやって機械的処理に落とし込めと言うのか。では機械的処理を諦めたとして、それでも数百程度のサンプルであれば手作業でやれなくもないでしょうが、仮に手作業でやるとしたときに出てくる問題は、それを誰がやるのかという点です。まさか手品関係者にやらせるわけにはいきませんから、誰かふさわしい人なり組織なりに委託する必要があります。相当の額が必要になることでしょう。

では仮にこれら全てをマネーパワーで押し通したとして、それに見合った結果は得られるでしょうか。無理でしょうね。

 

ここにタイトルが入る

00.00.00

個人的に楽しみでかつ怖いのが、フェイクトランスファーがどのような注目下にあってどのような自然さを目指すべきか、という点に言及されているかどうか。手品における自然さはざっくりとパントマイム的自然さとリアル寄りの自然さとに分けられると思うのだが、フェイクトランスファーでは断りなく(それが当然だと言わんばかりに)後者を目指す解説が多い。私は前者を前提に色々こねこねしているので、その辺の齟齬がすごく怖い。言及されていればすごく嬉しいし、されていなければ正直何も言えないのだけれど、文脈判断でどうにかなるかしら。

それから、私は渡したふりの事を基本的にフェイクトランスファーと呼ぶ。これにはとても個人的な感覚の問題があって、フェイクパスという呼称の場合、どうしても手を返してコインを落とすなり投げ渡すなりして他方の手で握り受け取る、という動作を想像してしまう。私の中ではリテンションバニッシュやフレンチドロップはフェイクパスではなく、例えばトスバニッシュのようなものをフェイクパスと認識している。フェイクパスについての解説との事だが、私自身の混乱を避けるためここではフェイクトランスファーもしくは渡したふりという呼称を使う。

 

00.00.51

事前に目を通したよ。言葉の定義付け?考察は保留。

 

00.03.51

フォールストランスファー。フェイクって言ってたわ。勉強になります。

 

00.05.08

パスとテイク。互いの厳密な定義はどうでもいいけど、分けて認識されているのはありがたい。あ、そうそう、時間は動画止めてこれ打ち込んでる時のやつなので、この時間以前のどこかに言及してるってことです。

 

00.07.37

私が以前提案したフォールストランスファーの構造分解。渡したふり、持っていないふり、持っているふり。これは私が、コインをリリースしてキャッチするという動的効果を活かした技法を好まないことによるものなのだな。ここで示される四構造分解は新鮮。なるほど。パスだと細分化できるのか。

 

00.10.21

クラパは難しいと思いまーす(そういう意味じゃない)。

 

00.12.24

親指戦略。ここはフロントを活用すべき。

 

00.14.06

乾燥肌はスライドバニッシュ使え。てーか見てて肌質による個人差を強く感じる。乾燥してるとそもそも非パームからパームに移行するのが瞬時にできないのよね。だからこそフロントとかクリップ系のポジションを活用するわけで。だからこそ動的技法を避けるわけで。うーん。理解はできても共感に遠いアイデア達。

 

00.17.30

これは投げ渡す時の脱力で握りこまれる、もしくは投げ渡す勢いに指が引っ張られるのを再現しているからではなかろうか。観客から見た時のリリースの瞬間とパームに入れる瞬間は指の摩擦とかによってずらされていて、観客がリリースを感じた瞬間にはまだコインは手に残ってて、その後の脱力フェイズで握り込む、みたいな。

 

00.27.58

あ、終わり?まあ言ってる通り重要じゃないし。いいのか。別の話題で改めて理論部分触れてくれるだろうか。

 

00.29.16

反射。適切な表現。真似しよ。

 

00.31.46

観察ですって皆さん。悪しき手品解説ワード筆頭、観察。やめてくれ。

 

00.32.45

想像力。これも個人差ありすぎて手品の言語化を阻む壁。観察とか想像って言葉は断じて解説ではない。やー、まーでもこれ手品師向けの解説だし、現実的な妥協点なのも事実なのよね。悲しいかな。

 

00.37.47

緊張感のパス。素晴らしい表現。研究テーマとして普通にアリ。

 

00.40.35

コインを持っているふりは、握っているふり、つまんでいるふり、乗せているふりに大きく分けられること。そしてつまんでいるふりの説得力を高めるとある限定的な戦略を以前チラと書いたが、その中で私は握っているふりが苦手だと書いたと記憶している。……やっぱり握っているふり難しいよね。言葉にし辛いし発展性も乏しい。そういう点でも投げ渡す動きのフォールストランスファーは難易度高いと思う。

 

00.52.15

面白い。限定的な練習法。受け手の動きやタイミングの同期練習には効果的そう。ただ他の部分には一切影響無いのでバランス大事。

 

01.10.15

うーん。

 

01.23.59

アイトラッキングやっぱり手品研究に有効よなあ。色々画策したことはあるけど現実的に大規模なデータ集めようと思うと資金が無理無理。でもアイトラッキング技術でお安く色々できるようになる頃にはARやVRのが便利になってんだろうなと思う。

 

01.30.17

あーそうか。動的だから注意力を分散させるだけで良いのね。そりゃあそうだ。静的な技法と理論の共有はできないわけだ。いやー。んー?静的な技法では注意力の分散に加えて色々工夫を入れるべきというのが私の主張なんだけど、動的なものとそんなに差が出るものか?うーん。でもー。あー。後で考えよ。多分動的静的問わず注意力の分散だけよりも効果的なやり方があると思う。あるはず。あってほしい。今さらだけどsee look watchで説明するのは分かりやすくて良い。

 

01.40.29

これは眉唾だと思う。少なくとも見逃している何かがある。手間さえ厭わなければ安価に検証できそうなので検証課題として積んどこ。要するに一生検証しない。

 

01.48.02

しまった。二人とも静的技法否定派閥か。敵だ。

 

01.49.56

それはギミックの特性上の話であって論拠としては弱くない?

 

01.58.54

まあリテンションは元来の狙いでは使わないよね。でも指先にコイン持ってて渡したい場面って何だかんだあるから、そういう時には使う。その程度。

 

01.59.42

それ。

 

02.05.34

映像記憶短期記憶の話?しっかり議論しようと思うと死ぬほどややこしいことになりそうなので投げ捨てたんだけど、ええ、マジで?

 

02.08.03

論拠雑すぎでは?うーん。

 

02.22.28

眠い

 

迷路の射影

地図を読める人、地図を地図として記憶できる人、一度通った道なら迷わない人。そういう人は人口の1/4くらいは居るだろうと思っている。少人数グループに1人か2人くらいの割合。家族に1人くらいの割合。彼らは多分、映像記憶を短期記憶として活用している人。各々の精度はともかくとして、多分それなりに、有意な数はいると思う。

映像記憶は個人差が大きいようで、例えば私が映像記憶を長期記憶として定着させようとするとして、なにかの本のページをカシャリとしたとしても、全体の色合いや文字の密度くらいしか記憶できない。ただ、短期記憶ならばギリギリ実用に耐える解像度になる。だからなのかは分からないが、私は目で見たものを映像的な認識から処理することの方が圧倒的に多い。こういうタイプの人のことを、ここでは仮に映像的な人と呼ぶこととする。私の見立てでは片手に1人くらいはいると思うのだ。

 

ところで皆は手品の演出をどう調整しているだろうか。教科書的な説明をなぞる?好きな手品師を目標に据える?知人友人にアドバイスを請う?自分にとって一番効果的だと感じる演出を目指す?ではその教科書や手品師や友人や自分は、果たして世界をどう認識しているだろうか。

私は映像的な人なので、行う手品の演出はそういう人に対して最適化されている節がある。映像的な人が一番驚くような間の取り方をしたり、映像的な人がパニックに陥りやすい情報の配置をして掻き乱す。例えば私の使う台詞では黙る場面が相当に多い。言葉を最後まで言わず濁したり、急に止めたりもする。映像人は映像情報の処理優先度が高く言葉が重視されないため、黙って情報を絞った方が認識をコントロールしやすいのだ。しかしそうでない人にとっては、黙るのは不親切以外の何者でもない。私の手品の演出は、どうやら見る人によって見え方が違うようだ。いや、私に限らず世のすべての手品は、なんなら手品に限らずとも、受け手によって認識は変わる。

教科書的な演出、とりわけ古典トリックの流れをくむものは長い歴史の中で平均的な観客に最適化されているだろう、という推定はさほど的外れではないはずだ。ということは、教科書的な演出はあらゆる人に高い効果を期待できても、最大の効果を得るのは難しい。もちろん、この姿勢は教科書として正しく、またプロパフォーマーとしても正しい。

 

例えばだ、演技の最初に観客にこう問いかける。皆さまは地図を読むのはお得意ですか?と。その反応から観客が目の前をどう認識しているか分類できたとしたら、その場に応じて演出を変えたり、手伝ってもらう観客選びの基準にしたり、目線や声のかけ方を工夫することで驚きの波及の仕方に影響を及ぼせるかもしれない。観客に最適化した演出を選び取れるかもしれない。ああ妄想が止まらない。なんとワクワクすることか。

具体的に検証する気は毛頭ありませんが。

手品師が手品以外の創作・表現に手を出して「手品の経験を活かして」作った作品や表現の中で使われる「見立て」のセンスは基本的に壊滅的である

 

という文章がツイッターの下書きに眠っていたのでこっちに置いときます。皆々様におかれましてはお気をつけくださいませ。

 

 

まあそれはそれとして、このブログ最近めっきり更新してませんね。仕様です。更新から30日空くとはてな運営から更新しろってリマインダーが届くんで、まんま私もリマインダー化してたりするんですけど、無為ですね。無為。諸行無常

別に書くことが無いってわけでもなくて、下書きに10くらいネタが眠ってるんですけど、やる気が切れたやつとか、時間かけすぎてよく分かんなくなったやつとか、書いてるうちに自分の考えが変わってきてわたわたしてるやつとか、モラル的に書いて良いものか悩んでるやつとか、何かしら問題を抱えて眠っているものばかりです。あと最近は他のタスクで忙しいのもあります。文章書いてる気力なんか無え。

それから、最近は手品理論への興味がちょっと薄れてきました。いや今でも普通に好きなんですけど、なんだろうなあ、手応えが無いんですよね。自分が興味を持っている理論の領域は、技法(動作)と理論とを結びつける具体的な方針の部分でして、例えば「自然であれ」っていうのは具体的になんなんだ、みたいな。自然ってなんだ。人間の動きとは。物理現象とは。みたいな。じゃあそれを特定の技法に当てはめたときどうなるのか。みたいな。それを一般化できないか。みたいな。そういう部分。でね、それが時間かかることかかること。一般化なんて夢のまた夢。そもそも元々の理論が間違ってるとか良くある。おまえら例外ありまくりの限定的な理論をあたかも世界の真理みたいに言うんじゃねえ。それから、比較的探しやすい理論系資料って大体が基礎理論のものなんですよね。具体的な話はどこにあるのかって言うと、個別のトリックの解説に散りばめられてるんです。それを全部漁れと?いや、無理では?しかも当然のように解説にだって嘘がある。無理では?で、ならばと思って自力で組み立てようとするわけです。多少やってみたわけです。でね、そしたら今度は答え合わせできない。「先人の理論を無視してるけどこれが正解!」みたいなのが完成する。どうやって証明しろと?実績?そんなの無いよ?

ともかく、有限な時間を注ぎ込むにはちょっと先が見えない。めんどい。なので最近は理論から距離を置いてます。別のアプローチを思いつくまで休憩。AR合成とか色々検証できそうだなとか考えたりしたけど技術が無いし。フェイクトスの重力加速度は0.8くらいなのかなあ気になる。なんだかんだ細々とやってるとは思います。楽しいので。