回転する手品師

意味はない

招き猫の喋り方

絵が上手くなりたいならまず模写をしろと言いますし、マジックが上手くなりたいならまず他人の演技の完コピをすべきだと私は思うのですが、マジック界隈を見渡してみるとそうしている人はいないようで。

気持ちは分かるんですよ。道具を揃えるのが面倒だったり、技術的な障壁があったり、面白くないとか、プライドが許さないとか、真似したい手本が見つからないとか、あとは、完コピを全力で批判する勢力が存在するとか。

模写に例えてみれば、道具は完全に揃えなくても近いものでも良いし、技術的障壁なんてむしろ学ぶためにするわけだから理由にならないし、面白くないのは当たり前、プライドなんて捨てればいい、良い手本を見極める目を持ってたらやる必要ないし、文句言う奴は縁を切ったらいい。

ええ、ええ、分かりますとも。あくまで趣味なんだから楽しく上手くなるべきで、苦行なんてしたくない。分かる。そう割り切れてる人は良いのです。でも人生ってそう簡単には割り切れない。

 

完コピをして何が得られるのか、という問題はなかなか根深く、突き詰めていけば、そもそも完コピとはどこまでやるものなのかという話になる。だが本稿では完コピの定義を議論するつもりはない。あしからず。

 

誰か適当なマジシャンの演技をコピーするとしよう。そのとき学びたいものは技法だろうか。もちろん違う。技法は技法として練習すればいい。演技をコピーするとき、学びたいのは技法以外にある。それは例えば、力の使い方であったり、間の取り方であったり、目線の置き方であったり、セリフの組み立てであったり、そういう部分だ。

言い換えれば、他人の演技をコピーする事で学ぼうとするとき、技法の完成度まで追い求める必要はない。極端な話、道具すら使わずとも、ある程度学べる。

何を学ぶのか。結論から述べよう。他人の演技をコピーすることで、あなたはその人そのものを学ぶことができる。

 

コピーをする時は、とにかくあらゆるものを真似ていく。声のトーン、指の1本1本の動き、肩や肘、口もと、目線、観客とのやりとり、ジョークの使い方、可能なら呼吸まで。何週間もかけて。人に見せる必要はない。鏡が、自分の目が、コピーできていると感じるまでやる。

すると色々なことが分かってくる。なぜこの人はスプレッドをこの向きにするんだろうか。なぜこの順番でコインを取り上げて、なぜ回すんだろうか。なぜここで脱力するんだろうか。なぜこんなセリフ構成でジョークを使うんだろうか。

ああ確かにこの動きの方が少しだけ早いや。確かにこうすると見えやすいな。この動作が後の布石になってたのか。こんなにパームのケアしてたのか。このセリフ意識誘導しやすいぞ。

本には書いていない。レクチャーでも教えてくれない。本人が自覚していないかもしれない、その人なりのやり方が少しずつ理解できてくる。

 

コピーをする。この行為は”他人の努力の成果に乗っかるだけの楽なやりかた”だと思われている事が多い。実際に作品として発表するなら、そうなのだろう。しかし、練習として、模写のように真摯に取り組むならば、決して楽なんかではない。その人が無意識にしているであろう様々なサトルティ、癖、天性のトーク力、そういったものまで理解しなければならない。その人以上に、その演技を、その人そのものを理解しなければならない。

コピーをすることで様々な価値観を知る事ができる。面倒だと感じていた手続きが、実は演技全体と絶妙に噛み合った最適解だと分かるとか。絶対バレると思っていた技法の使い方が、あらゆるサトルティで二重三重にカバーされていたり。たった1枚のコインのパームに全神経を集中してカバーしていたり。そして、それらやりすぎレベルのことが、当人にとって楽なのだということ。次第に鮮明に見えてくる。

本で読んで全く魅力を感じなかった作品、誰かが演じてくれてもイマイチ面白くなかったけれど、ある時本人の演技を目にして一瞬で虜になったという経験は誰しもあるだろう。そんな感じだ。マジックは平易な言葉で表わせるほど単純ではない。その構造には、少なからず”その人”が入り込んでしまうものだ。それが作品にどう影響しているのかが分かってくると、今まで分からなかった様々な要素、間の取り方やセリフの置き方などが、驚くほどスッと理解できるようになる。理屈でやっていたことが、感覚としてできるようになる。成長できる。マジックを心から理解できたかのような感覚に酔うことができる。そしたらきっと、マジックがもっと楽しいものになるだろう。